Paul Spooner(ポール・スプーナーさん)がデザインし、Matt Smith(マット・スミスさん)により1995年に制作されたオートマタ
"Columbine"(コランバイン)
花びらを一枚づつ摘み
'He loves me, he loves me not,'
「愛してる、愛してない」
と、誰もが一度はしたことがあろう花占いをします。「愛してる、愛してない」
このオートマタを見て、他国にも花びらの数に相手を想う気持ちを託す占いがあると知り驚いたのは私だけでしょうか?
作品名となったコランバインとは、 シューマンのピアノ曲にも登場する有名な道化芝居の娘コランバインのことで、せつない恋物語からインスピレーションを得て作品にしています。
また、ヨーロッパでは物語の中で娘コランバインが持つ盃とオダマキの花の形が似ていることから、オダマキのことを英名ではコランバインというそうです。
Cabaret Mechanical Theatre |
親鸞聖人、法然上人が述べられる「愚かさ」とは、
教養の有無において語られる愚かさではありません。
つまり、賢愚という相対的な意味での愚かさではなく、人間である限り誰もが有する根源的な愚かさのことを指します。
たとえば、欲望にとらわれて自分を見失ったり、自分にとって都合の悪いものを排除しようとして、他者を傷つけ悲しませたりするような愚かさです。
状況によっては、悲しい結果を招くような言動をとってしまう、そこに人間の愚かさがあると言えるでしょう。
「愚者になる」とは、そのようにして生きる自分自身の愚かさをよく知るということです。そして、自分自身の姿に目を背けることなく、愚者の自覚を持つ者こそが、まことに生きる者であるということを述べているのです。
自分の愚かさを自覚するということはなかなかできることではありません。
なぜならば、私たちは少しでも自分の姿をよく見せようとしたり、時には自己弁護したり正当化したりして、自分自身の本当の姿からつい目を背けてしまうからです。
しかし、「愚者になる」ことによって開かれてくる生き方があることを、私たちは法然上人や親鸞聖人の人生から学ぶことができます。
浄土宗の開祖、法然上人や浄土真宗の開祖、親鸞聖人がたくさんの門弟を生み出したのは、そのような生き方と無関係ではありません。
自分の愚かさを認めるところから、他者を理解し、人々との深い関わりを持つことが可能となるのです。
「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。
『法句経』仏陀(Buddha)