キース・ニューステッドさん(Keith Newstead)が1996年に制作したオートマタ
"A Brassy Mermaid" (真鍮の人魚)
©Keith Newstead
©Keith Newstead
多くの部品が真ちゅうで制作されピカピカに輝いていた人魚も年月とともに赤茶け趣が感じられる作品になってきました。
この人魚をみていると、学生時代に観たロン・ハワード監督の人魚と青年が恋をするロマンティック・ファンタジー映画を思い出します。
ロマンティック・ファンタジーなのですが、どこか人魚の姿を通し孤独で寂しげな私たちの心の奥底に感じる不安さを写しているように見えます。
ロマンティック・ファンタジーなのですが、どこか人魚の姿を通し孤独で寂しげな私たちの心の奥底に感じる不安さを写しているように見えます。
「我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し。」
『往生要集』源信僧都(942-1017)
この言葉は、最も厭(いと)うべき世界として説かれる「阿鼻(あび)地獄」に出てくるものです。「阿鼻」とは、「無間」という意味ですが、絶え間なく苦しみを受けなければならないという、地獄でも最下底に位置する世界です。ここの住人は、他の地獄の住人があたかも天での生活を楽しんでいるかのようにさえ見えると言います。冒頭の言葉は、この「阿鼻地獄」に堕ちていくときに、罪人が泣き叫びながら詠む詩とされています。
私は今、もはや帰るべき場所もない。たった一人で、友も無く、地獄に堕ちていくのです。
地獄とは、自らの欲望ばかりを優先させて生きてきた者が堕ちていく世界です。他者を傷つけても痛みを感じることが無い者が、終には堕ちていく世界です。人間は元来、多くのものと共に在り、支え合いながら生きています。しかし、このような当たり前のことを無視し、共に在ることを見失った者は、一人、孤独の世界に堕ちていかなければなりません。友も無く、永遠の孤独に満ちた世界で、長い長い地獄の苦しみを背負っていかなければならないのです。
『往生要集』に説かれる地獄の凄惨な様子は、読む者を底知れない恐怖に陥れていきます。地獄を、自分とは別の世界として客観視できない気分になってしまいます。それは、地獄が、実は私たちの世界の穢れたあり様の行く末を映し出す鏡となっているからです。時には、自分自身の日頃の生き方を反省的に照らし出し、深い恐怖に覆われてしまうこともあります。
『往生要集』は、実はそのような効果を狙った書物です。源信はそれによって、穢れた世界を離れ、浄らかな世界を求めるよう、多くの人々に説いてきたのです。
大谷大学「きょうのことば」より